「太田道灌が江戸城を造った」というセリフだけが頭にこびりついていて、「造ったって言うんだから、お城の設計者?大工の棟梁?、、でもちょっと違うよね!?」なんて印象のままこのかた生きてきた!私は地歴好きだとは言え、受験の時も世界史・地理という受験界では変わり種(自分では合理的なつもりだったのだが!)パターンだったし、日本史の方は、大河ドラマ周辺とそれ以外と、知識の濃淡があるw
だが先ごろ、関連の動画を見て少し視界が開けた‼︎
あらためて事実を調べると、太田道灌は、室町時代後期、関東の名だたる「武将」だった。もっとも、のちの江戸城主である徳川幕府下では道灌についての記録は薄まってしまったのかもしれないが、、!
どなたかの書き込みを元に発展して調べたら、滋賀県草津市にある太田酒造は太田道灌のご子孫で、明治初期から醸造業を手がけたとあった。
その太田酒造のHPによると、太田道灌は「築城名人でもあった」らしい。そこでは道灌について、より詳しく知ることが出来る♡ (ご参考まで)
HPの記述からすると、私の最初の勘違いもそれなりにいい線行っていたのかなw
ここで、道灌の有名な山吹伝説を。
道灌が今の早稲田大学付近へ鷹狩りに行った時、にわか雨に遭い、近くの農家に蓑をくれるように頼んだところ、貧しくて差し上げられる蓑が無く、そこの娘が、蓑の代わりにひと枝の山吹を差し出し、
‘七重八重 花は咲けども山吹の
実の一つだに無きぞあやしき‘
と、「実の」と「蓑」の掛け言葉を含んだ和歌で婉曲に返答した。
最初これに道灌はムッとしたがw、お付きの者が、万葉集の和歌であることを説明したら感心!その後、その娘はお城に奉公するようになったという。
その農家は、応仁の乱で関東へ避難してきた武士の家で、娘も文学の素養があったらしい。
宮城道雄先生作曲の箏曲に「道灌」という作品があり、これは大合奏なので演奏機会が限られる為、母から話を聞いていたものの、自分には演奏経験が無かった。そのため残念ながら印象が薄かったのだが、この歌詞には上述の逸話が盛り込まれている。
また、西日暮里にある「道灌山」とは、太田道灌の出城(でじろ)だったことによる地名になっている。この小山の一部に開成学園があり、息子がお世話になった頃はこれにまつわる話をそれなりに見聞きしていたが、調べるところまではいかなかったww
いずれも、道灌についてこれまで少しずつかすってはいたものの、今頃認識したということは、、
きっと物事は、「興味が沸く時が、その時」なのだろう‼︎