「茶屋四郎次郎」
四郎か次郎、1個でよくない? でお馴染み?の名前!
「大黒屋光太夫」みたいにインパクトのある名前だし、サッカー選手の「ミレンコヴィッチサヴィッチ」とか、川崎フロンターレの「ファンウェルメスケルケン際」みたいにリズミカルで、是非フルネームで復唱したい名前でもあるww
だが実は「茶屋四郎次郎」は屋号で、本名は「中嶋」だったらしい。
「茶屋〜」は、戦国時代の豪商で政商だ。
京都の呉服商だった父は「商売は武士と手を組むのがいい」と見て、徳川家康に目をつけた!そして息子を会いに行かせ、この時から「茶屋」は家康との縁ができた。この息子が「茶屋」の初代となり、彼はかなりの知恵者であった。
本能寺の変が起きた時のこと。その時家康は三河を離れて京都周りにいたそうだ。
それがどうかしたの? というのはド素人のお気楽さw
こんな時は信長側だった武士は皆、命を狙われる対象となり、明智が押さえた京都はもう危ない! となるんだね、、恥ずかしながら初めて知ったことで、これにはかなり驚いたww
三河へ戻るには京都回りではなく、命からがらの伊賀越えしかない!
実際、家康はこの時、自決も考えたという。
ここで「茶屋」が活躍する。充分な金子(きんす)を携え伊賀の野武士と談判し、家康の命を救った♡
本能寺の変が及ぼす影響は大きかった‼︎
こうして家康に見込まれた「茶屋」は政商としての地位も確立していき、彼のマルチな才能も買われて家康の江戸の町づくりの手伝いもすることになった。
江戸城の城下町の中で町人の住む区域を「茶屋」は任された。
多くの水路による水運も活かした商売の流通を考える。
「餅は餅屋へ」というわけだ!
江戸の甲州街道沿いに忍者町を点在させた ということについて、先日ブログで「忍者、甲賀と伊賀〜」を書いたばかりだが、京都出身の商人が「江戸の町人の町作り」に一枚噛んでいたとはね!
大河『べらぼう』で、吉原の蔦重が日本橋通油町に進出するくだりがあり、興味深く見たのだが、呉服屋、本屋、薬屋etc、、と、1700年代の江戸で商人が集まる日本橋界隈も、その町づくりの元は「茶屋」が仕込んでいたことなんだなあ と繋がった。