大河ドラマ『べらぼう』第9回では、主人公の蔦重と花の井(花魁:おいらん)が双方恋仲になった。花魁に対して鳥山検校が身請けを申し入れたきっかけで、蔦重の方も自分の恋心に気づいたというわけだ。
蔦重(蔦屋重三郎)は、江戸時代に出版業界に新風を吹かせた風雲児。
彼の仕事の一つには、‘吉原’ を売り込むことで出版業の隆盛を計るというのがあり、ビジネス面の才覚に優れた人だ。だがその結果、吉原で働く遊女達は忙しくなりすぎて、環境はさらにブラック化した!
そもそも花の井に対する蔦重の立ち位置は、彼女を救う関係にあったとは思えないのだが、、
なので、‘ 現実的な ‘ 彼女の幸せを考えたら鳥山検校と共に、一刻も早くその苦界を抜け出すのがいいとさえ思っていた!(演者が市原隼人さんだから余計そうかも だがw)
当時の環境では常に妊娠等の身体へのリスクは高いし。鳥山検校と花の井は、『るろ剣』の志々雄と由美の関係に似て、この2人には相通じる境遇から理解し合えるようにも思うし。
連続もののドラマや作品を制作する時、文字通り‘色’を添えるため、主人公の恋愛設定を敷くことは多いようだ。前作の『光る君へ』の藤原道長と紫式部の時もそうだった。よくよく考えるとそもそもの恋愛設定にムリがあったり、そんなはず無いような人なのでは?だったり、、。
ビジネスや政治の世界であれだけ上りつめられる人が、人(含む:女性)からの機微に疎い野暮天なわけがない!?
それに良くも悪くも、己の夢が一番大事な人であろうしw
前年に続いて同様の流れが来たので、さすがにそんなことを感じていたww
プッチーニ作曲のオペラ『ラ・ボエーム』は、ヒロインのお針子ミミが(おそらく結核で)亡くなるという悲劇で終わる。筋書きが、ちょっと不自然に感じる程に悲しすぎるので、これを観てみんなはどのように気持ちを納めているのだろうと思い、少し調べてみたことがある。すると、多分同じに感じていたであろうオペラ通の方の(ネットの)書き込みに興味深いものを見つけた。
オペラ中の歌詞や流れをよく見ると、主人公の詩人ロドルフォ(男側)の方は、割に‘軽い’というか、「恋する自分が好き」とか、題名通り、恋も「ボヘミアン」的な感じさえ垣間見える というのだ‼︎
プッチーニの時代ら辺以降のオペラ作品は往々にして、まず先に発表したい曲ありき!それに寄せた筋書きありき‼︎ 、、そして脚本、演出がこれらを盛り立てるという作り方をしているという。
結果、そこで繰り広げられる「恋愛」を深く掘り下げるのは、野暮なようなのだww
さあ、そうとくれば話は早い!
この手の作品の見る側の姿勢としては、恋愛模様にはがぶり四つに組まずに、その彩りをヴィジュアル的に楽しむ、割とあっさりと感動する! などがよろしいようだ‼︎
乱暴に言ってしまえば、この『べらぼう』でも、蔦重を演じる横浜流星さんのカッコよさと、花魁演じる小芝風花さんの美しさに、ただ酔うことにしてしまえばハッピーなのである。脚本を始め演出に、ちゃんとそのような工夫がされているのでね♡
第9回では蔦重と花の井の悲恋が描かれ、実際入り込んで見れば胸が痛む。松葉屋の主人が言うように「お前の出来ることは黙っていることだ」という、敢えて伝えない「身を引く」上級の愛もあるのだ。(「ルパン三世」の次元がよくやるやつ ← 男性ファンが多い理由の一つ!)
だが筋書き上では、そもそもずっと惚れていたのは花の井の方だったので、若き日の純な思い出として、結果往来だが辛くともあの顛末はあっても良かったかも!?
マジレスすれば、運命の歯車はズレ、蔦重は己の恋心に20年目で気づいてるくらいだし、まだその時では無かった ね!
(私、松葉屋の女将 ‘いね‘ みたいになってる!?)
『べらぼう』は一方で、歴史の‘ 事実 ‘ として残っている「出版産業のゆくえ」や「江戸幕府の政治のゆくえ」も描いており、こちらは深掘りしてもかまわない。
以上、あくまで私見の結論としては、鑑賞側の心得とでも言おうか、史実とフィクションが混在するドラマ等の場合は、その両方を見る視聴者のスタンスを、賢くも ‘ 分けて ‘ 楽しめばいいようであ〜る‼︎