帝国ホテル(東京)で展示されていた「初代料理長とご子息の手になる料理書」にとても感銘を受けたので、そのことが今日のテーマ。
江戸時代後期の横浜は開国の玄関で、西洋文化が真っ先に届いた場所だったのだろう。初代料理長吉川兼吉氏は、まず横浜グランドホテルで西洋料理を研鑽、その後、鹿鳴館の料理人となった吉川氏を帝国ホテルへ迎えた。
分厚い料理書が、同じく料理人だったご子息と共に父子の手によって毛筆で残っている。
ホテルに展示されていたその料理書を見ると、レシピや料理法などの内容はもちろん、整然と乱れることなく並んだ文字に、まずその見た目の印象だけでも驚き感服した。心の中で唸ってしまった!
自分自身、書道の稽古も兼ねて家で一度、般若心経の写経をしたことがあるが、あれだけの文字(約260字)を同じ字の大きさでブレずに一気に書き上げていくには、なかなかの胆力が必要だった!そんな卑近な経験からも、丁寧に誠実に書かれた分厚いこの料理書を見た時の衝撃はかなりのものだったのだ!
これは、料理関係者でなくとも、一見の価値ありと思われる。
「字は体を表す」と言うが、吉川兼吉さんは料理の腕前だけでなく人としても情緒が安定した素晴らしい方だったことが、書体からも伺い知れたのであった。吉川さんが後輩にレシピを残す方法にはメモ書きや走り書きだってあり得る中で、きれいな清書という形をとられたことは、写経でなくとも形を変えた精神修行にもなっておられたのでは?
あの料理書を見て、静かだが凄まじい迫力と情熱が伝わった。
吉川氏は帝国ホテルの初代料理長を務めた後、明治天皇の料理番を経て伊藤博文に請われ共に当時の李朝に渡り、そこでの料理番を務めた。伊藤博文暗殺事件翌年、日本に帰ることになったという。
所属の変遷を見るだけでも「時代」が感じられ、開国後の日本の列強諸国に追いつけ追い越せの気運のさなか、西洋料理の修得のみならず歴史の中心人物たちの胃袋の担当も請け負ったことが解る。
次代の料理人へレシピを繋げようという優しさ、情熱と責任、新しい日本を作っていくんだという「精神」があったればこその奮闘 と思わないではいられなかった。
分厚い料理書から沢山のことを教わった。
追記)
帝国ホテルでは少し前、渋沢栄一さんのお孫さん、鮫島純子さんによるお祖父様との思い出の一連の展示があった。それは、鮫島さんの上品なお人柄が偲ばれる展示だった。
みずからお描きになった思い出の絵や手記が載った冊子について、ホテルの方に尋ねたところ、大変丁寧な対応をいただき感激しました。
さすが、おもてなしのお手本といわれるホテルだなあと感銘を受けました♡