先日、柿澤勇人さん演じる実朝について語ったが、最期の演出がまた見ものだったので、綴ることにする!
歩き巫女の呪術めいた「天明に逆らうな」とこだまするセリフと相俟って、雪の降る中、覚悟を決めて悟ったような実朝が公暁に切られていく場面は、実際は惨劇のはずなのに、耽美的な美しささえ表す演出で、本作で描かれる実朝像における死出の送り方にふさわしいと感じた。
妻、千世に渡していた辞世の和歌「出でていなば〜」を詠む柿澤さんの声が美しく、これがあの権謀術数渦巻く鎌倉の渦中の人なのか?と思わせる静謐さがあった。
本作では、文人でもあった実朝に対する扱いが優しい。脚本家三谷氏の配慮であろうか?今回、もう一人特殊な扱いを受けた人は、仏師、運慶である。
義時との会話で、「俗物であるがゆえに、作品が人の心を掴む」という一面の真理を、運慶は義時から指摘された。義時はこれほどまでに人を見抜く目が育っていたのである。そしてこれは、運慶に三谷幸喜氏を重ねたものだろう。三谷氏はゲンを担ぐ一面があるということを、このブログで語ったことがあるが、そういうことである!
急に卑近な例で恐縮だが、以前、箏三絃に取り組んでいた頃、特に古典芸術は一種の宗教性を帯びるため、大いなる存在(神仏?)に向き合うのか、聴衆に寄り添うのかという塩梅を考えたことがあった。
フラダンスなんかでも、古典と現代、その2方向のジャンルがあるくらいにネ。
当時、友人の紹介で長唄のプロに話を伺った時、歌舞伎でも、正式には型が流れてしまっている人気役者がいるが、圧倒的に集客力があって、人を惹きつけているのでそれでいいのだ思う という意見をお聞きし勉強になった。
この度の、運慶の世俗性はやはり「俗物上等」なんだろうなと感じるし、上(神?!)を向くあまり大衆を置き去りにしては、ともすると独りよがりで、何が芸術なのかという疑問も残る。
この世は、出来不出来色々あっても人と人とで成り立っているのだからw
「鎌倉殿〜」では、時に三谷氏の本音も垣間見えて楽しい。
お笑い好きでもある三谷氏は多分、大衆(人)が好きで、大衆を研究し、大衆に寄り添う作品を作る人なんだね。だから、演者の演ずる役どころに、時に切なく、時に憤り、「わかるわ〜」と共感させる力があるのだろう♡
追記)
「鎌倉殿〜」では、たいていの「死」に対して何がしかの施しがあるが、今回の源仲章に対しては、ちょっと手厳しかったネ!最後の愛のムチか?!
出血死における「寒いんだよぅ」の断末魔のセリフは、そりゃあ事実なんだろうが、いつもは気取っていた仲章にしてこの言葉とは、素直と言えば素直、でもなんか幼児性を感じたね。最後まで自分本位の人だったのね〜。
かつての事件で某社長の「私は寝てないんだ!」という言葉を思い出してしまったw
三谷氏のスゴイお取り扱いに、思わず苦笑してしまった!