その2、、「芸術論」編
「レニングラードの優雅さは、すべてをおし殺した中にあるんだ」
これはレニングラードバレエ団のバレリーナ、主人公ノンナ・ペトロワが、ボリショイの天才ラーラとの(前半での)バレエ対決で、自分のバレエを見失い、どんどん自信を失っていった時に、師匠のユーリ・ミロノフに言われた言葉だ。
ラーラの派手ぶりな晴れのする舞台というのも、天才ゆえに完結していて、十分見事なものだ。一方、ユーリのめざすのは派手さを抑えた表現なため、高度で、実現はなかなか困難なものとなる。豊かな叙情性とか高い精神性とか、、。
(全8巻中)後半でもこのテーマは出てきており、ユーリのライバル、エーディクが図らずも、「芸術が一般大衆のものであってたまるかい」という本音にも似た極論を吐いているように、この兼ね合いは難しいものだ。
一般受けに走り過ぎても、独断に陥ってもならないわけで。
私は、箏・三弦の教師の資格を持っているが、これに取り組んでいく後半で、ユーリのこの言葉は身に沁みた。箏などのお座敷芸から発達した楽器は、小間で聴かせて味があるようなところがあり、大舞台でマイクや音響を通すと、どうなるのか?という問題と、さらにもしプロだった場合は、興行成績を無視できない現実(大舞台での興行)にぶち当たる。家元の祖、宮城道雄先生も、この点の苦悩はあられたらしい、、。
著者の山岸涼子さんは、この漫画ではバレエを題材に、随所で他にも優れた芸術論を語っているが、これらは、およそ全てのアートに大なり小なり通じることだと観ている。
「アラベスク」の全8巻で学んだことは、今でも、芸術に向き合う時の自分の核になっている。